(その2)なのに、考えてもよく分からんことを垂れ流す続いてるんだか続いてないんだかメモ。

その1(https://atz.daimon-okinawa.com/blog/509/)

続き。今回は自分用の編集後記をメモっておく。考えたけど、よく分かんなかったことについて。また考えることがあるかもしれないし、ないかもしれないからメモっとく。

●別の世界線もあったけど、この展開はすでに決められていたよね。
タイトルの原罪ッピ。

記事では紙幅の関係でカットしましたが、私は本書には別の「生きる道」がありえたように思うと話しました。ご本人の経験や体験部分を膨らませて、(敢えて本書で用いられている「ウチナンチュ/ナイチャー」という言葉を使うとしたら)『ナイチャー社長、うちなー経営奮闘記』にすれば興味深く読めたんじゃないかと。そしたら売れなかったはずね笑

ストーリーラインは、こうだ。中央エリート経営者の主人公が地方の崖っぷちホテルを立て直そうと奮闘するみたいなプロットで、都会やグローバルに通じてたはずのその手腕が地方では通じず、紆余曲折あって地域の人々との対話によって本人も周りも変わっていく。お互いのみてた景色がどうすれ違っていたのか。そこがありありと浮かぶようなハートフル・コメディ作品。
これだったら好き嫌いはあれど、著者が人から聞いた話の醍醐味が伝えられて、書き手も読み手も登場人物も楽しめる作品になったんじゃないかなーって思ってる。
あるいは、往年のラジオ番組「アバンティ」的な展開もありだよね。人の話にこっそり聞き耳立ててみましょ的なノリが好きな人多いじゃんね。著者のキャラクターも活かせたんじゃないかなあ。それだったらきっと読者同士の「感想戦」は、もっと和やかに弾んだはず。

だがしかし、やっぱりタイトルに入る「沖縄の貧困」が強いフックになっているので、どうしても「沖縄の貧困」のテキストとして読者に批評されてしまうのは必然。

私は記事でも書いたように「沖縄の社会構造が貧困を生み出していると同時に、沖縄経済が貧困によって維持されている」「貧困の対症療法ではなく根本原因の特定に労力を費やすべきだ」という主張には同意する。(ただこれ、本書でしか言われてないかっていうとそんなこたあない。)

けど、本書のなかでは「沖縄の貧困などの社会問題について、その原因がリアリティをもって言語化されたものは、私が知る限り、書籍、論文、新聞記事、コラムなどを含め、ほとんど存在しなかった。根源的な解決策にいたっては、見たことも聞いたこともない(p.21)」とすべて研究も現場の実践も無いことになってしまっていて、さらには肝心のそれについてどう考えているのかの記述がない。

根本原因は(当然その前に貧困の概念や定義や測定基準やら前提の話も沢山できたと思うけど、それは著者が専門外だからということで飛ばして、沖縄県内のかなり限定された地域の言論空間のみを対象として目配りしたのだとしても)、すでに沖縄県内においては昨今子どもの貧困に関心が集まりまくっていて、その流れで産業構造の偏り、社会的排除、階層の固定化などさまざまな角度から論じられているはずで、そこに留まらず税の再配分を求める政策提言やユニバーサルな支援を求める声、そして多様な実践が存在する。タイトルが挑発的なのに「そんなものは存在しない」と書かれているから、本書を読んだ人びとからの批判が噴出するという状況になっているのではとコメントしました。

(だから、別に著者がその疑問点に対応したら良かったと思うんだけど、答えないからまた、、、、なんでファクトチェック記事のインタビュー断っちゃったのー? 反論するなり、本当はこう言いたかったんだ!って補足するなりしても良かったのに。もったいないと思ってしまった。まぁでもそれは本人の決めることだから外野が言っても仕方ないけど)

●貧困は心の問題って言うことが沖縄をよくするって本気で思ってる?

本書においては、「沖縄社会は、現状維持が鉄則で、同調圧力が強く、出る杭の存在を許さない(p.72)」「優秀な人を排除(p.124)」し「向上心がない(p.84)」といういくつかの「良くない事例」が掲示される。

「現状を変えたくない、波風を立てたくない、目立ちたくない、失敗したくない、人に嫌われたくない・・・・現状維持の沖縄の社会構造を作り出しているのは、「自分らしさよりも場の空気を優先する」というウチナーンチュ気質である。そのために、自分らしさを諦め、生きづらさに甘んじることになっても、だ。 さて、ここまで説明した貧困を生み出す沖縄の社会構造の下に、もう一段、根本原因が存在する。「自尊心の低さ」という、心の大問題だ。(p.133)」という風に説明されている。

「著者は、そんなこと言ってない。「沖縄社会を非難するものでも中傷するものでもない(p.81)」と言ってるじゃないか!」という反論が出てきそうだが、例えば「向上心がない」のではなく「昇進や報酬を断ることには合理性が存在するのだ(p.85)」と章を締めくくる箇所がある。その「合理的」の中身が「同調圧力」に抗えないからだということになっていて、それで「労働者はまるで自分から貧困を選択するかのような行動をとりがち(p.82)」なのだという説明になっていたりするのだが、それらはいずれも「ウチナンチュの気質」や「自尊心の低さ」ということが「根本原因」だと示されている。

この辺りは、記事内で悪魔化として考えているということを書いた(その1)。こういう記述が、他者を排除していくロジックとして支配的になってほしくないなと思う。

●きっとまたすれ違う。

それでも「え、だから間違ったこと言ってないとこもあるんでしょ?ならなんでそんなに噛み付くの?」みたいな反応があるかもしれない。

それに対する答えは、たぶんこうだ。批判している人の気持ちを勝手に代弁する。

「地球はまるい!だけどなぜ丸いのか見たことも聞いたこともないが、あなたが世界を丸くみることができないのは、あなたの心が丸くないからだ。トゲトゲしてない?」みたいなこと言われても「え?」ってなんないかって。「たしかに地球は丸いことは正しいけど、え?」。

もしくは、「ハトムギ玄米ツキミソウどくだみハブ茶プーアール♪」って歌ってんのに、原材料、麦・塩・水だったら、「それ、ただの麦茶じゃん?え?その並べられた具体名とどんな関係が?」ってなるじゃん、って。

もしくは、「六甲のおいしい水」って書いてるのに、実は「神戸港を経由しただけの他国の山の水!です」ってなったら「それ産地偽装じゃん!」って言わないの?

もしくは、コンビニで水買って、7割泥水で3割雨水だったとしも、これは「水がちょっと入ってるのですが、気持ち的には50%くらい水です!」って言うの?

って感じだと思う。違うかもしれない。

でも、読者同士は、ずっとすれ違っている。そもそも手に取る人と取らない人も分かれてるんだろう。きっとファクトチェックの記事も、そこで何が書かれてるのかとかあんまり関係ない反論とか支持とか出るんだと思う。

記事のなかでは「Twitterみたいな本」だと言ったんだけど。なんかすごくこの本が好きな人にとっては「おみくじみたいな本」なんだなーって思ってて。(誰が何を好きだろうが関係ないです。)

おみくじ引いてそこに何が書かれていようといまいと、自分がそれをどう思うかが大事なのであって。他人からあーだこーだ言われるなんてウザい。お前の解釈を押し付けてくるんじゃねぇ!みたいな。なんかそういう議論のすれ違いが起きているように思う。あー、あれが近いかな。めざましうらないのラッキーアイテムに「その効果は非現実的だ!真偽不明だ!」なんて言い出す人が居たら面倒くさいでしょ。そういう感じのすれ違い。

上述のとおり、貧困問題や沖縄に関する社会問題に関心のある方にとっては、その認識の粗が目立ってしまって胸をざわつかせたと思う。でも、この本を「おみくじ」のように有難がる人にとっては難癖をつけられているように感じてるんじゃないかと思った。「なんで、みんな愛を持って沖縄を良くしようとするのに揚げ足取るの?」的なスタンスで立ち止まっているように見える。

(バズって本が売れる方が実利があるし、それが筆者にとっての本書の言葉を借りれば「経済合理性」になってしまっていいのか?本当にそこに愛はあるのかい?という疑問も残るんだが)

●どうして本書の中で批判的に示されているふるまいをするの?

ちょっとおもしろいなと思っていることは、本書を支持して「本書は沖縄を良くしようという大事な指摘が書かれている!」と言う人が、本書で批判的に提示されている「沖縄的ふるまい」を見せるのは、何故なんだろう。

例えば「いいえ、彼らはいいやつなんですよ(p.93)」というのがクラクションをならす著者を冷たい人扱いする沖縄人の典型として描かれている。本書を支持して、本書にある通りに読めば、「彼らはいいやつなんだ」と沖縄社会の現状維持をさせるような働きかけは克服すべき行為のはずなのに、ファクトチェック記事で本書の記述内容に対して指摘されている事柄に対して「樋口さんはいい人なんですよ」みたいな反論をするのは何故なんだろう。書評であって、著者のことなんて何も言ってないのに。

本書で「問題解決を行う上での最大の問題は、私たちはそもそも本当の(根源的な、という意味だが)問題が何かを知らない、ということなのだ(p.69)」と書かれている。

なんと重大な指摘だ。

ならば、本書を支持する人は、「そもそも何が起きているかを知ろう!」という姿勢になるはずじゃないのか?

「沖縄社会は、現状維持が鉄則で、同調圧力が強く、出る杭の存在を許さない。この社会習慣は、人が個性を発揮しづらく、お互いが切磋琢磨できず、成長しようとする若者から挑戦と失敗の機会を奪うという、重大な弊害を生んでいる。善意を持って注意すること、学生に厳しく叱ること、部下に仕事を徹底して教えること、友人に欠点を指摘すること、将来のために現実的な議論を戦わせることなどの多くが、沖縄では最も困難なことだ。はっきりとした物言いをする人に対しては、表面上はやんわり、目には見えないほどの微妙さで、その発言を取り消せと言わんばかりの強い同調圧力がかかる。(p.76)」というのが、本書で乗り越えるべきと考えらている点なはずなのに、なぜ整合性の取れないふるまいをするのだろう。

●誰も言えなかったことを言った、のか?

それから、あれも気になる。「恣意的なイメージが流布されることには反対だ」っていう批判的な意思表示する人びとに対して、「学術書でもないものに目くじら立てちゃって。そんなことより人の話がおもしろいことを評価しよう」みたいな冷笑系なのか牧歌的なのか「マジレス乙」的態度とる人は、あれはどういう態度なんだろう。

本書では「沖縄社会のことを直接尋ねてみても、行動の多くは無意識で、ほとんどの人はその意味を言語化できない。本人に自覚がない(無意識だ)から、アンケートやインタビュー、フィールドワークで本質を抽出することが不可能に近い(p.20)」というように社会調査の技法と価値を否定されている。

(さすがに質的調査ってバカにされすぎじゃない?笑)

そういう記述の上で、「沖縄あるあるでウチアタイするようなことを言ってくれたのがおもしろいんだよ!データとかどうでもいいよ!そこに本書の価値があるんだよ、それが分からないの?」みたいな反応って、どういう主旨の反論なのかなぁ。

私たちは調査・研究するってなったときに(取材とかも同じ?)、相手の話を先入観で聞いていないか、捏造にならないか、倫理規定に違反してないか、そもそもこの人の代表性は、どんなサンプルなのか、どんな属性なのかとか、いろいろなことを考えながら人の話を聞いているはずで、それがすべて取っ払われているものに対して手放しで評価するのは難しいんじゃないかな。だから、あまりにも無作法な形で作り上げられたイメージを他者の本質だと誤認されてしまうことを危惧するひとに対して、こういう批判ってちゃちゃ入れになってないかなって思ったりもする。

それから、「沖縄のひとがタブー視してたこと言ってくれたじゃん」って言うのって、どこなのかな?「補助金」の章?「沖縄で本当によく耳にする「沖縄は補助金に頼っていない」という言説はおかしいという直感が働く(p.44)」とか?

基地経済や沖縄振興策批判を理解するための「資料が存在しない(p.44)」ってことになってるんだけど、それこそ言い過ぎでは?むしろ参考文献も注釈もついてないことの方が気になっちゃう。参考文献も注釈もなにもないから、本書のオリジナルの主張なんだ!って思っちゃった人いるかもしれない。でも、たぶん違う。補助金行政や基地経済批判はすでにされているんじゃない?

(自分の分野以外のことを整理して説明できないから基盤的な対立もあるだろうに並べることしかできなくて恥ずかしいんだが、たとえば島袋純、熊本博之、宮本憲一、川瀬光義、宮城和宏、櫻澤誠も言ってないっけ?本当に言ってる人が居なかったんだったらむしろ教えてほしいです。)

ただ、たしかに、まるこめ酢をあんなに目の敵にしたものは見たことも聞いたこともない。

●次の一冊へ。

とは言え、「不正確な書物が出回ると恣意的なイメージを鵜呑みにする人がいる」という前提になってるのも気にしていて。まぁ、そういう側面は、もちろんあるんだろうけど、それでもそのひとりひとりの思考はその人のもので、何も言わないからって何も考えてないわけじゃあないと思う。

だから、最後の締めを「次の一冊に手を伸ばしてほしい」と書いたのは、何か1冊の本が全てだと信じて知ることをそこで止めてしまうよりは、その他のたくさんの中の1つとして相対化する方が、もっと豊かな議論ができる土壌が育まれるんじゃないかなーって、せっかく関心を持ったひとと出会い直したいなと思ったから。

最初に出会った1冊で世界の見え方が左右されてしまうなんて、そんなスマホゲームのガチャじゃないんだから。次のガチャ引けますよ、何度でも。最初のキャラに愛着が湧くのは分かるんだけど。

本書が好きな人もそうでない人も、本書で書かれたことを相対化して理解を深めるためには、より多くの書物や資料に触れていかないと、結局は自分の想定を強化するだけになってしまうんじゃないかなと思ったり、思わなかったり、うーんと悩んでいた「その時、とつじょゾロリたちがらんにゅうし、おならでぜんぶかいけつしてくれちゃいました。物語はこれでおしまいです。めでたし、めでたし」(©かいけつゾロリ)

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