はじめに
連休明け、10月11日(抗議をするにも土日祝は休むぞ!)のことです。
表題の通り、ゲスト出演させて頂いたネットラジオ番組への出演回(沖縄の貧困問題に関する回)の削除要求を行いました(削除されるかどうかは分かりません)。
このネット番組は社会問題に対して関心の高いジャーナリストHさんがナビゲーター(のお一人)となっている番組です。前身のFMラジオ番組時代からも社会問題を多く取り上げている番組で、私もよく聞いていましたし、H氏の沖縄関連の取材報道なども拝見していたのでお引き受けしたものです。抗議の意を示し、対話をするためには「他に方法がない」ので、こういう形になりました。
さて、今回の抗議に至った私の考えをここに記しておきます。何を考え何をしたかの記録であり、議論するための素材が揃った文章ではないと思います。
有名掲示板創設者氏の辺野古の抗議活動への揶揄に端を発する一連の騒動のなかで、ネット番組で辺野古基地関連の特集がありました。今回の抗議は、その回にご出演されていたO氏(Hさんと関係の深いモニフラに出演中。騒動の翌日も共演)の発言に対してのH氏の擁護するような一連のTweetに抗議の意を示した形です。(なぜ、震源地本人ではないのに抗議にさらされるのか?という疑問があるかと思いますがその点については後述します)
O氏の発言とH氏の擁護。私の不信感。
O氏の「反吐が出る」「あんな排他的な人たちが」「抗議運動のカジュアル化」「共感を得られないんじゃないか」などなど、強い語気で一連の沖縄ヘイトを助長するTweetに対して、H氏は(1)不必要な擁護(聞こえてなかったのかな?)を行うと同時に、(2)安里・志賀本の紹介をするというパフォーマンスをすることによって、O氏がなぜ批判されているのかという批判を封殺しようとしたように思います。
なぜ、私はこの2つの行為が抗議に値すると考えたか。
(1)O氏の発言をH氏は「辺野古移設反対運動を今後多くの世代にさらに広げていくためにどのような運動のアップデートがあるのかこれから知恵を出し合いましょう、という提案」だ、とポジティブ解釈して擁護していました。私は、このH氏の行為(O氏擁護)は、O氏の沖縄差別、基地問題を沖縄問題に矮小化すること、を肯定しているだけだと捉えています。
もちろん、「みんなで意見を出し合って良いところを見出したい」というお気持ちを持つ人がいることは理解するし、「それくらい若い人が言いそうなこと」で話を終える人もいるでしょう。
しかし、それを言いながら、沖縄の基地抗議活動を一方的に非難する必要はない。そう言うならば、せめて主語が『自分は、沖縄の基地問題に対してどう向き合うか』である必要があったはずではないかと思う。基地問題は沖縄で過重に起きているけれど、これは日本全体の問題であるので意見を出し合おうというのであれば、一部の「沖縄の基地抗議活動がどうあるべきか」に焦点化して問う必要は全く無い。高江で行われたH氏の活動の延長にある抗議活動は素晴らしいが、辺野古の抗議活動はだめだという無意味な比較もまた必要無い。
抗議活動というものは、いろいろなレパートリーがあってよく、それぞれが行えばよいものです。O氏の発言を擁護することは、権力関係が不均衡な現状に対する認識が弱く、権力に擦り寄った形で実現される活動こそが正統なものだという主張を後押しするだけで、少なくとも「運動のアップデート」(この発想自体に違和感があるが)に寄与するものではない。そう考えると、H氏のO氏擁護は、適切だったか?「聞こえなかったのかな?」は軽率に思える。
誤解があってはいけないので記述しますが、H氏がO氏の乱暴な言説を諌めないことへの抗議ではありません。H氏は、O氏の言動を容認しているわけではないだろうというのも理解しています。確かに、若者が間違った言動をしたら諌めるのが大人の役目であって、今回余りにも過保護すぎるとは思いますが、それは批判の本筋ではありません。
H氏は、この擁護に続けて(2)安里・志賀本を紹介しました。しかし、安里・志賀本の根幹は「本土優先―沖縄劣後」という「構造的差別の是正」を求めるものであり、O氏発言に見られるような、当事者であるにも関わらず「第三者の立場から発言可能な基地問題」という構図を否定するものである(少なくともH氏は帯コメントを寄せており内容を知らないということはない)。この不自然な紹介のつらなりによって、私にはH氏もまた「沖縄に寄り添う」というパフォーマンスをしているだけで問題の本質を理解していないのではないか?という疑念が浮かんでしまいました。
取り下げの依頼に至るまで
H氏自身は、たしかに騒動の発端ではないし、彼が人々を威圧したり見下したり暴言を吐いたわけではない。それなのに、なぜ彼の番組出演の取り下げを依頼するに至ったか。
以上のような不信感について述べた上で、どういう理解になっているのかを聞きつつ、抗議の意を示すため出演回の削除を求める旨、番組出演時にやり取りしていたスタッフさんにメールをしました。
はじめに抗議した際、裏方スタッフさんに「削除要求を考え直せないか?」と聞かれました。このときに再確認した(ことなのでスタッフさんに感謝する)のだが、この件についてH氏からの説明はないまま、私の抗議の意志表明の形に対してだけ「考えを変える気はありませんか?」と問いかけられる行為は、結局の所、抑圧構造の再生産と同じ構造が起きているのではないかと感じてしまった(スタッフさんにも伝えた)。
H氏はたしかに発端ではないし、彼が人々を威圧したり見下したり暴言を吐いたわけではない。
でも、無自覚な差別発言を擁護したとしても責任はないと考えているなら、むしろ今こそ、いかに無責任な言葉の暴力によって抗議や沖縄の諸問題が矮小化されてきたのかを考えるべきではないのか、と伝えました。
違和感を表明し、対等に発言を求めて、対話をしていくことこそが分断を乗り越えるためには必要なことなのではないかと考えたからだ。H氏ご自身の言葉で、このO氏擁護に関して発言がなされる事を願い、それがなされない、またはそれでも納得できない場合は、放送回の削除を求めたいと伝えました。
しかし、それに対してH氏からスタッフさん伝いに送られてきたのは、Twitterでの志賀・安里氏とのやり取りのなかで「O氏の発言に異を唱えた」というTweetのURLでした。
(私はこの時点で、これらのやり取りについて知らなかったし、私自身SNSをあまり見ないこともあるかもしれないが、H氏のタイムラインからも、この一連のやり取りは見られない。反論に対するツリーになってるのかな?ちょっとここはよく分からないです。)
これを、もうすでに自分の言葉で答えた、と受け取れば良いのか、安里・志賀氏とは和解していると捉えればいいのか分からないまま、対話をすることはできなかったんだなと残念に思い、削除を求めることにした次第です。(これ全部伝えてます)。少なくとも、H氏がどう受け止めていてどう行動するのか知りたかった。
結論。なぜ、私が抗議したか。
私たち沖縄出身者・活動家の声は、中央メディアにいる善意の人を通してしか発信することが許されないのかという問題として捉えたからです。善意の人に寄り添ってもらって、違和感を妥協してしか発信できないということを、自分がやりたくないからです。
在京メディアに出て、広く「沖縄の現実の一端を伝える」ことは大切だと思います。でもそれは私たちが信頼関係が多少崩れていても妥協すべきなのか。私たちは、自分たちの活動をジャーナリストやメディアが取り上げてもらわなければ広まらないと思っているからこそ葛藤の中でメディアに出ている。
「沖縄のひとの言葉」というものは、頭のいい人や著名人に解釈されて、都合よく翻訳されねば流通しないというような幻想を流布するようなものに加担したくないからです。
私の言葉は、私のものだからです。
私のようなほとんど影響力のない者の放送回がインターネット空間から消えても何も変わらないかもしれませんが、持たざる者の1つの抗議手段として、このような形での意思表示となりました。また1つ、誰かに届くチャンスをなくしてしまったかもしれないけど、また新しく機会を作れるまで、コツコツ言葉を紡ぐための準備をしようと思います。
※裏方スタッフさんは、とても真摯に受け止め、ご自身もSNSでこの問題についての思いを吐露するなど他人事ではないと感じさせる対応をして頂いてます。また、今回の件について抗議するからと言って、H氏のこれまでの沖縄取材や番組の意義には敬意を表しますし、これまでの活動を批判する意図は全く無いということは何度もお伝えしたいと思います。
追記(2022年12月1日)
・「制作会社とAmazonの結論の報告」として「配信回の取り下げはしない」ということだった。
・メールのすべては、「PDFデータ化して責任者」に送られてあるとのこと。「法務担当なども交えて検討が行われた」とのこと。
・私自身は、それを受けて、自分自身の主張はしたので、これ以上は何も求めないことにしている。
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